LPを聴いてみよう              2005年1月17日

 長い間CDに親しんだ人にLPを聴いてもらうことは非常に難しい。            

多くの人達は、現代社会の激しい変化に追随していくことを当然のこととして何の疑いも持たないし特にエリートといわれる人たちは、自分の価値観とその時代の価値観を一致させることを以て生き方の基本としている人が多いように思われる。

 ディジタル較差なんて言葉を聴かされれば、今どきLPなんて聴いていたら時代にとり残されるのではないか、貧乏人と思われやしないかとさぞかし不安になることだろう。

 今、中学生に読ませる本は、小学校で習わなかった字は出て来ないらしい。新聞や雑誌は学校が教えなかった字は一切使わないことにしているようだ。
 三島由紀夫の全集さえも高校生のレベルに合わせて書き直されているらしい。
たった50年前に書かれた、三島の文章をそのまま読む機会を、社会の側が奪っている、ということなのだ。つまり、今の人達は自分が教えられなかった事以外一切問われない要求されない、という状況に置かれているということなのだ。

 今国語能力の低下が問題となっているが、それは今まで教育や社会がやってきたことの結果が表面化したに過ぎないだけであって、問題は単に国語能力だけでなく、もっと基本的な知的好奇心の低下ということなのだと思う。

 かって、ある詩人が、山の彼方の空遠く幸い住むと人は言うと歌った。
 今の教育で育った人達だったら、ヒコーキに乗って山の彼方へ行けば幸いが手に入るのだと考えたとしても不思議はない。インドへ行けば東洋哲学の真髄が解ると考えて、ヒコーキに乗ってインドへ行く若者が沢山居ると聞いているがつまりはそういうことなのであろう。
 山の彼方というのは象徴的なことなのであって、人の想像の中に存在するという事なのだが、今の若い人たちにとってはその想像するということが、一番苦手な事なのかもしれない。

 CDにはないけれどLPにはある、というものが確実に存在する。それは測定器で測る事の出来るような相対的なものではなく、人間の官能しか判断することの出来ない絶対的なものである。一体それがどんなものなのか、想像してみようという気になるかどうかが先ず最初のステップだということであろう。

 LPを聴いたからといって全ての人がそれを確認出来る筈だとは約束できないが、幸いにも手に入れる事が出来た人は、それを、教育が社会から自分たちが手に入れることができなかったものの象徴として理解することになるかもしれない


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