サタディレヴュー # 369       9.  10  '16

 

寅さんは韓国人だった?

 

 日本人の85%が嫌韓だといわれている。

 好きとか嫌い、とかいうことは、個人個人の感情的、生理的な問題だから、法律に触れない限り、例えば嫌いだからといっていきなり殴りかかるとかしない限り、他人にとやかく言われる筋合いの事ではない筈だ。

 世の中には困った人たちが居るもので、ある人たちを嫌ってはいけない、嫌いだという感情を表現することを法律的に“禁じるべき”などととんでもないことを言う人がいる。

 そういう人たちに比べればいくらかましなのかも知れないけど、フーテンの寅さんがもし韓国人だとしたら、日本人の嫌韓感情もやわらぐのではないかと考える人がいる。多くの日本人の嫌韓を嘆かわしいと思っているのであろう。

 昔、寅さんシリーズが現役だった時代に興味深いことを言っていた人がいた。

 寅さんは毎回毎回全く同じパターンで女性に懸想をし、全く同じパターンで失恋する。現実の人間はどんな人間でも経験から学ぶものだから寅さんシリーズのような、性格設定はおかしいのではないか、というのだ。

 私は寅さんシリーズを一本も見ていないが、この文章を読んだときもっともだと思ったことを記憶している。

 一般にエリートは学校の教室で書物から学ぶ。庶民は現実の社会で経験から学ぶ。もし、寅さんのように経験から何も学ぶことが出来なければ庶民は一生愚かで生きるより他に道はない。寅さんのキャラクターを庶民の典型として肯定する人は、庶民というものは永遠に愚かであればいいのだと言っているようなものだ。

 エリートと言われる人の中には難しいことは我々が考えるから庶民は考えないでいいのだ、と思っている人がいる。はっきりとそういう事を言う人もいる。寅さんのキャラクターはそういう考えの人たちにとっては好ましいのだろう。 スクリーンに登場するヒーローたちの役割は、かつては見る人たちに“生き方のお手本”を示すことだった。

 石原裕次郎も小林旭も市川雷蔵も高倉健も全てそういうキャラクターを演じて来た。かれらの演じてきたヒーローの基本的な条件は何か、と言えばそれは問題解決能力だ、と言っていいだろう。

 しかし、寅さんにはその問題解決能力が一切ない。常に同じパターンで失敗を繰り返すのだ。

 現在の日本の社会は様々な問題を抱えているのに、その殆どは、日本国民にとって、望ましい解決を期待出来ない状況にある。ただただカネの論理の前に、私たちは全く無力だ。

 オリンピックなどという巨大な無駄遣いを誰も止められない、どうせカネを遣うなら後の世代のためにいくらかでも役に立つようなことに遣ったらいいではないかと思うのだがそういう事を言う人は一人もいない。       

 我々日本人は全て“寅さん化”してしまったのではないかと思える程に問題解決能力を失っている。

 東京新聞夕刊8/25 「大波小波」に次のような記述がある。

 “「フーテンの寅」は渥美の代名詞となる当たり役で48作も制作されたが、渥美の晩年、もう出来ないという話になる。その時、山田洋次は永(六輔)に、寅さんの最終回を考えていると打ち明け、渥美に伝えるように頼んだという。ラストシーンで寅さんが韓国、釜山行きの船に乗り、「アリラン」を歌いながら帰るという話だった。

 「最終回が朝鮮に帰っていくというところで終わっていたら、少しは変わりませんか、日本人の朝鮮に対する考え方が・・・・」。永にこう聞かれ石牟礼(道子)は「変わりますね」と応じている。"

 永六輔も、石牟礼道子もフーテンの寅さんがもし、コリアンだとしたら、一般の日本人はコリアン全体に対して好意を持つ筈だと考えている。つまり、二人とも、日本人の85%が嫌韓だということの意味がまるで分かっていないのだ。

 この85%の日本人がコリアンを嫌うのは、充分根拠があってのことだ。

 在日韓国、朝鮮人が他の外国人にはない特権を持っているとか、日本人と同じ条件で納税していないとか、パチンコ業界を支配してかれらの献金で政治家に影響をあたえているとか、日教組を通じて日本の教育を歪めているとか、日本人が彼らを嫌う理由はキリがない、と言えるほど沢山ある。さらに当レヴューの範囲ではとても書き切れないようなもっと根の深い問題もある。これらの問題は、一部の人たちによって秘かに語られるだけで、かれらの影響下にあるメディアはそれを決して明るみに出そうとはしないのだ。

 寅さんが朝鮮人であろうとなかろうとそんなことは全く関係がないのだ。

 在日の多くの人たちは、日本のルールを守り、日本人と良好な関係を保ちたいと思っている筈だ。それに対して反日的な行動を取る人たちがいる。そういう人たちは数の上では多くはないだろうが、“力”があるのだ。そして彼らを助長しているのが、かれらに対して物分りのいい態度をとる一部の日本人なのだ。

 笛吹き男の笛にみちびかれて、ぞろぞろと町を出て行ったハメルーンの人たちのように、寅さんのアリランの唄にのって、在日の人たちが日本を出て行ってくれるなら、ありがたいことだ、日本中で赤飯を炊いて祝ってもいい位だ。

 しかし、残念なことにそういうことにはならないだろう。

 

 

 

日本の政冶の現実

 

 民進党の代表選は9月2日に告示され蓮舫代表代行、前原誠司元外相、玉木雄一郎国対副委員長の三人が立候補を届け出た。9/2 東京新聞夕刊

 蓮舫は「わくわくする政治、さわやかな戦い、女性の挑戦(を掲げて)頑張りたい。」と、実体のないナンセンスな言葉を並べている。

 産経新聞はこの人の二重国籍を問題にしているそうだが、国籍は政治家にとって最も重要な条件の一つだ、国籍が二つある、ということはその政治家が基本的にどちらの立場に立つのかわからないからだ。

 そういう肝心なことが、問われてこなかった、という事自体が日本の政治のいかがわしさを示している。

 前原は「民進党再生の最後のチャンスだ。党再生が日本の再生に繋がる。」と述べたという。

 この人の言うことも、具体性に欠けるという点で蓮舫と大して変わりがない。

 もう一人の玉木は「自由で穏健な保守政治の立ち位置を作りたい」と述べたという。

 当レヴューでは日本に“保守が居ない”ことを再三書いている。保守を標榜する事自体けっこうなことだといえる。

 しかし、二重国籍の人間が重きをなしているような民進党の中で“保守”を主張しても、一体どこの国を“守る”のかが問題となるのではないか。民進党の中で保守を標榜する事自体が国民の目に奇異なことに写るのだ。

 

ヒラリーの方向転換

 

 ヒラリーの周辺で不審死が多発しているという。

 いずれもヒラリーが世間に知られたくない情報を持っている人たち、あるいはそれを公表しようとしていた人たちである。

 俗に人の口に戸は立てられない、というが、ヒラリーの病状は事実を知る何人もの人たちの口を塞いでも隠しきれないような状況のようだ。それでヒラリーの陣営としては方向転換せざるを得なくなってきているらしい。

 “ロイターによれば(ヒラリー)クリントンはFBI調査官に2012年に受けた脳震盪によって、機密資料の取り扱いに対する規制に関して、受け取ったかも知れない秘密書類を全て思い出すことは出来ないと述べた。”

 ヒラリーは大統領になる事が出来れば、彼女の今までの行動に関して、訴追を免れる事が出来るだろう。

 しかし、大統領になれないとすれば-現在その公算は大きくなっている-選挙後に当然訴追が待っているだろう。その時に備えて、“病気”を公にした方が得策だ、と考えるようになっているのかも知れない。

 

いじめ問題に対する考え方

 

 われわれはいじめの問題に対する考え方を根本的に変えた方がいいのではないか。

 この種の問題が起きる度に行政や教育の関係者が、「徹底的に原因を究明し、いじめの根絶に向けて万全を期することにする」などと口々に言うのだが、何年経っても何十年経ってもいじめの問題は後を絶たない。

 いじめはそれほど解決困難な問題なのだろうか。

 もし、行政や教員組合やメディアが“本気で”解決しようと思えば出来る事ではないのか。

 しかし、かれらはその問題を“本気で”解決しようとは思っていない、それを意図的に作り出している人たちがいる、しかもそれを知りながら意図的に放置している、とわれわれは考えた方がいいのではないか。

 その世代の子供を持つ親たちは自分たちの子供は自分たちで守ることを考えた方がいい、教育行政を過信しない方がいいのではないか。

 

 

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