サタディレヴュー #43 6.12.'10
究極の"だまし"
CDが出始めの頃何人かで聴いていたとき、その中の一人が"饅頭みたいだけど、あんこがないって感じだな"と言う発言があった。
CDの音に何か非常に肝腎なものが欠けているという認識は多分かなり多くの人達に共通するものだといえるだろう。
その"欠けている部分"をどういう言葉で表現したらいいのか迷っていたのだが結局ありふれているがSOULとかSPIRITとかの言葉が適切なのではないかと思うようになった。
SOULというものは"SOUL MUSIC"と言われる黒人の音楽の専売特許というわけではなくて、どのようなジャンルにおいてもその核心の部分であり、クラシック音楽も当然例外ではないわけだ。
しかしながらクラシック音楽の世界では心も問題はどちらかと言えば軽視され勝ちであったと言える。
それは"心"というものがあんこのように食べられるものではない、五感で認識できない、つまり客観的な評価の対象になりにくい、と言うこととクラシック音楽の多くの作品は、その音響部分−心を抜きにして−だけでも結構楽しめるものであること、そして演奏家の仕事としての面から考えてみると、それを音響的に整えると言うことだけで、精一杯だということにあるのかも知れない。
中森明夫と言う人の最近の小説「アナーキー・イン・ザ・JP」(新潮 5月号)で主人公の少年が〈美はパンクにあり!真はノイズにあり、クラシックは偽りなり〉と叫ぶ場面があるという。
"クラシックは偽りなり"ということがどう言うことを言いたいのかよく解らないが、先に述べたような意味合いで言っているのだとすれば、当たっていると言えるかも知れない。
クラシック音楽の世界に於ける音響的な部分に対する異常とも言える執着は、音楽ホールやオーディオ製品に強く反映している。いづれの場合でも、音楽の核心を確実に聴き手に届けると言うよりも聴き手に"快く感じさせる"ということに重点が置かれる。
音楽評論家であり、指揮者でもある宇野功芳という人は若い人にカリスマ的人気があるらしい。その人のオーディオの"主治医"の青木周三と言う人は「分割の良すぎる音より、演奏会場の一番いい席で聴こえる音、実演に近い音」を目指す人だという。
分離が良くない、つまり各声部の音がお団子状に固まって聴こえると言うことはどの様な音楽にとってもプラスの条件ではない、特に多声的な音楽に対しては致命的なマイナス条件なのだがその様な装置で聴けばゲシュアルトやモンテヴェルディのマドリガルはつまらない曲だと思えるのが当然だ。しかし元々そんなものは価値のないものだと思っているとすれば自分の装置が真実を伝えて居ないことに気付かずに終わるであろう。
そして、分離の良すぎない音、つまり、分離の悪い音が良い演奏会場の条件だと言うことになってしまう。
宇野功芳という人は「名ホールとは演奏を美化する。これが第一条件だ、舞台上の残響に身を包まれて演奏しているとホールが自分を助けてくれている、という喜びで体を満たしホールに任せる気になる…・・強い和音が鳴った後に残る長い残響はいつまでもその中に浸っていたいと思う程で……」と述べている。
私は宇野功芳がクソミソに言う日比谷公会堂や東京宝塚劇場(昔の)でシンフォニー オブ ジ エア、ウィーンフィル、ボストン響、イタリアオペラの数々を聴くことが出来た。それらの体験は確実に音楽の世界に引き入れてくれたのである。今にして思えば、優れた演奏家は美化される必要がないと言うことだったのだと思う。
美化とは或る意味で歪曲なのだから(それは宇野功芳本人も認めている)なのだ。
昔からタイル張りの風呂場で唄を歌うと、上手になったような気がすると言われてきた。現在のカラオケサウンドもそういう錯覚に基づいているのだ。
残響の長いホールというものは演奏家が自己陶酔に浸る分にはいいのかも知れないが、肝腎の聴衆が音楽の核心を掴むことを妨げる、ということに気付くべきなのではないだろうか。
80年代以降、いわゆる"音響の良いホール"が全国各地に出来たのだが、正にそれに符節を合わせるようにクラシック音楽人気が凋落してきているのは偶然ではないだろう。
CDというものが登場してきた時、私はクラシック音楽を聴いている人はこういうものは受け入れないだろうと思った。しかし、案に相違して、CDは一応受け入れられてしまった。
でもそれはCDが完全にLPに取って代わったということではないらしい。
私が学校を卒業して、働き始めたころはLPが世の中に出て10年位経っていた訳だがその頃、シェラックの78回転のSPを買う人は余程のコレクター以外には居なかったし、まして、新品の蓄音機なんてどこにも売って居なかったと思う。
それなのにCDが発売されてから30年も経つと言うのにLPレコードのプレイヤーの"新製品"が発売されているという。当店に来られる人の中にも"LPは、今は聴いていないけれど押入にしまってある、いづれは落ち着いたら聴きたい"というようなことを言う人は実に沢山居る。
一般に世界を支配する力の源泉は軍事力だと考えられている。しかし、今の現実に世界を支配する者は、自分の軍事力を持っているわけではない。寄生虫として取りついた国の人たちを騙してその人たちが納めた税金で維持されている軍事力を利用しているにすぎない。つまり、現実の世界の支配者の支配力の源泉は"騙し"なのだ。
そういう騙しのプロたちにとってただの蒸しパンを饅頭だと思わせるなんて事は簡単なことかも知れない。
振り込め詐欺については様々なメディアで注意を呼びかけられているが未だに被害が後を絶たないというのはあきれる他はない。
蒸しパンを饅頭と勘違いする位なら大事ではないがそう言う人達はもっと大きな問題−例えば9.11"テロ"−でも騙されている筈だ。そういう騙され易い人たちがこの国の将来に大きな禍をもたらすかも知れない事を考慮して置くべきであろう。