最新オーディオ事情    2005年 3月 14日

 

 “LPを聴く、ということに関して言えば今のオーディオ製品は高級、低級に関わりなく、大体駄目なのだ” と私が言うと、“おかしいじゃないか、技術は進歩している筈じゃないのか” と、反問する人は多い。

 確かに、その疑問は尤もなのだが、現在のオーディオシステムがLPを適切に再現出来ていない、というのは事実のようなのだ。

 “LPを聴いている” という人に、その人が持っているのと同じレコードを聴いてもらうと、余りに違うのにびっくりする。そしてそれは好みの問題というような事ではなくて、正しく再生されているか否かの問題なのだということに、大体の人は気付く。

 しかし、ご当人にしてみれば大枚はたいて買った装置がLPを正しく再生出来ないのだというようなことは、受け入れがたい部分があるのは当然だから、率直に納得しない人も多い。

 オーディオ技術というものは、様々なレヴェルで与えられる二つ、あるいはそれ以上の選択肢のうちのどちらを、或いはどれを選ぶかの判断の積み重ねの問題なのだと要約出来るのだが、ある種の人達はそのプリミティヴな作業を軽視して、何か “究極の型紙” が存在するかのように錯覚していて、それによって自動的に“高級機”が出来るかのように考えているのかもしれない。

 オーディオの世界には様々な誤解が存在しているが、その一つは相性補正という考え方である。権威あるオーディオ評論家が “タンノイは鳴らすのが難しいスピーカーだ、並のアンプじゃ鳴らない” と、呟くと、私だったらそんな難しいスピーカーは使いたくないと考えるのだが、逆によほど高級なスピーカーに違いないという風に考える人も沢山いる。一流の詐欺師顔負けのだましのテクニックのようだが、それがタンノイの神話を支えていると言えるのかも知れない。

 10年以上前、ステレオのプリンシプルを発売して間もない頃、当店を訪れた中年の紳士の方が “このアンプでタンノイは鳴るかね” と聞くので、私は“ 鳴りますよ、ただしタンノイの音がするだけですけど ”と答えたことがある。その人はそれきり当店に来られないので、運よく“タンノイを鳴らしてくれるアンプ” を入手されたのかどうか私は知らない。

 私たちがアンプを作る際、前提としてスピーカーは理想的にバランスの取れたものである、という認識から出発する。正しくバランスの取れていないスピーカーをアンプで補正する、なんてことは考えたこともない。

 バランスの取れていないスピーカーをアンプで補正する、なんてことは本来出来ないことだし、万一、それを可能にするアンプを作れたとしてもそれは多分正しいバランスのスピーカーに対して有効性を失うであろうと考えるからである。

 しかし、多くのアンプメーカーは “当社のアンプで満足すべき結果が得られないとすれば、それは我々の責任ではなくて、スピーカーが悪いのだ ” と言い切る自信と勇気がないために切りもなく妥協してしまう、ということらしい。

そして、当然 “正しい状態に補正する” なんてことが出来る筈がないから、混乱をさらに増幅してしまうということになる。

 それがボタンの掛け違いのようにオーディオ全体に及んでいったのだと思う。その掛け違いの第一ボタンの役割を果たしたのが、タンノイの存在であったように思われる。

ソフトに対するハードの相性というものも基本的には存在しない。クラシックだろうと、ジャズだろうと、4管編成の大オーケストラであろうと、無伴奏のヴァイオリンやチェロのソロであろうと再現性の難しさ同じである。

但し、再現性が不十分であるときにそのことに気付きやすいかどうかの差はジャンルによって多少はある。一番気付きやすいのはオペラであろう。

60年代の頃、未だ普通の人々は高級スピーカーなど買えない時代にタンノイのオートグラフを使用していた五味康祐のことを知らない人はいないだろうが、その彼は “イタリアオペラはアホが聴くものだ”という考えを持っていた人だという事は知る人が少ないと思う。

 イタリアオペラはアホが聴く音楽だと考えていたとすれば、イタリアオペラを聴いて好ましい結果を得られなくても、それは “欠点” ではない。そういう意味で、そういう考えは装置の選択に影響を与える。

そして、そういう風にして選んだ装置がその“考え” を助長することになるとしても不思議ではない。勿論、イタリアオペラを聴くかどうかはその人の自由である。しかし、それがアホが聴く音楽のように思えるとしたら、シンフォニーや、室内楽も正しく再生されていないかもしれないということは考えてみる必要があるということなのだ。

 タンノイを使用しておられる方々は、よく “私はタンノイの音が好きなのだ” とか、“どうせ生ではないのだから”というようなことを口にする。LPというものは一般に考えられている以上に“生に近い音” を再現することが出来る。ただもしそれを実現したいなら、”好きな音“ という考え方は捨てる必要がある。

 20世紀に生み出された工業製品の中で、後世に残したいと思われるものはそう沢山はないと思うが、LPはそういうものの一つだと思う。

 しかし、正しく再現される手段が失われるとすれば、ただのゴミと化すのは当然であろう。

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