初心者こそLPを
                         12. 21. '05

ある人が"自分の知り合いにクラシックを聴く人は何人か居るが皆CDで、LPまで行く人は居ない。"と語っているのを聞いてその"LPまで"という言い方にひっかかるものがあった。
つまり、その言い方には普通に音楽を楽しむ為にはCDで充分であってLP"まで"行くのは余程贅沢で特殊な要求を持った人たち、はっきり言えばマニアックな人たちのものだというようなニュアンスが感じられたからである。
しかし、現在、LPを聴いて居る人の多くはLPを特に贅沢な特殊なものとして、利用している訳ではなくて、ごく"普通に音楽を楽しむ"ためにすぎない。
LPの本質を知らない人達に何故CDではだめなのかを説明するのは大変難しい。
かつては - デジタルサウンドが登場するまで - 私たちは多くの通俗名曲によって楽器の豊かなソノリティを楽しむ事が出来た。
オーケストラの曲で言えば、ロッシーニのウイリアムテル序曲、ビゼーのアルルの女組曲、ブラームスのハイドン変奏曲、チャイコフスキーのイタリア奇想曲、ドビュッシーの牧神の午后への前奏曲、ラヴェルのボレロ、ラヴァルス、ストラヴィンスキーの火の鳥、ペトリューシュカ、等々である。
これらの曲は、現在では"通俗名曲"として扱われるに相応しい通俗性を持たなくなってしまった。
もちろん楽器のソノリティの楽しみがなくては音楽は全く成り立たなくなるのかと言えばそういう訳ではない。音楽には様々な側面があるから、無理に探し出そうとすればないことはないのだろう。
近頃のヴァイオリニストは、 - 他の楽器の人もそうだが - しばしばクラシックだけではなく、映画音楽やロックもタンゴも弾きたいというようなことを言う。
つまり、ヴァイオリンという楽器によって、イタリア古典曲、モーツアルト、ベートーヴェン、ブラームスのソナタやコンチェルト、ユーモレスクやタイスの瞑想曲、などの小品等を演奏することによって、聴衆を楽しませることに全く自信を持てなくなっているのだ。しかし、それはレパートリーを変える事で解決するような問題ではないだろう。
演奏家の技量ということもあるだろうがその問題はタナ上げにするとして、多くの演奏家たちが自分の音楽が聴衆に正しく伝わらないと感じているとすれば、その原因の多くはデジタルサウンドによって聴衆の音楽を聴き取る能力が破壊されているということなのだ。
それは子供が大人に成人する過程でジャンクフードばかり食べさせられていれば味覚が破壊されるのと、全く同様なのだ。
 "通俗名曲"を楽しめなくなったとしても、他にいい曲は沢山ある。音楽は時代とともに移り変わっていっていいのだという人が居るかもしれないが楽器の響きの魅力 - もちろん人間の声も含めて - は、あらゆる時代のあらゆる国々の音楽にとって、文字道り、普遍的な前提条件であったのである。演奏家が自らの楽器の響きの魅力を信じられなくなったのだとしたら音楽は成り立たないのだ。
当店をご利用いただいているある方が、書店へいくとグレン・グールドの本はこんなに - 両手を70センチほど広げて見せて - 有りますと言っておられた。
つまり、音によって感じ取れない分を無意識に活字情報によって補おうとしているのだと推測出来る。
人は皆、人生の様々な段階で、ある選択を迫られる。多くの場合それぞれの選択肢について、充分な配慮をするという訳ではない。なんと言っても先のことは解らないからである。それで案外無雑作に選んで、自分は間違った選択をしたとは思いたくないから、自分が選ばなかった選択肢についてはなるたけ考えないようにするという訳だ。
LPを聴いている人と、CDを聴いている人ではその人の生活の中で音楽の占める位置づけが違う。音楽に夢、あこがれ、理想を見出したい、その可能性を信じるなら初心者の段階でLPを選ぶ必要がある。
何と言っても最初が肝腎だからである。

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